ホルス・サーガ
巨大看護婦体内漂流記(前編)
笛地静恵

1・午前3時:あと18時間

 宝部伍郎(たからべごろう)は、耳元のベルの音で、叩き起こされた。急患だろうか。ひどく眠かった。

                 *

「はい、宝部」
 取り敢えず習慣で、そう答えていた。目覚まし代わりに、ベッドの枕元の棚に置いておく携帯電話が落ちて、また枕の下で鳴っているようだった。

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 夢見が、悪い。寝相は、悪い方だった。特に、彼の患者だった佐々木なにがしの死後は、そうだった。明らかに、医学部長選挙に気を取られていた。彼の手術ミスだった。あんなことは初めてだった。しかし、それだけは、口が裂けても、言ってはならないことだった。

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「おはようございます。伍郎先生。!」
「ああ、おはよう。怜子君」
 彼のことを、伍郎先生と親しみをこめて呼ぶことを許されているのは、帝都大学の菊池教授の愛娘の怜子だけだった。他は、本名の宝部先生と正確に呼ばせている。

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 今度、定年で退官される医学部長の東野英太郎教授は、難波大学の水戸黄門と呼ばれる程の、人望のある方だった。彼は、その後釜を継ごうと思っている。

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 学部長選挙のために、帝都大学の菊池教授には、いろいろとお世話になっていた。眠かったが、相手が怜子では、おそろかにはできなかった。重要な時期だった。

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 「イデエ!イデエナア!」背中に激痛が走っていた。こういう時には、出身地の方言が自然に出る。

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「ウッシシシシシシッ!」
 下品なふくみ笑いの声がした。
「先生、お里がバレますよ!」
 瞬間的に、怜子ではないと分かった。帝都大学の才女の誉れ高い怜子は、こういう笑い方を絶対にしない。

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 「君は誰だ!?」
 起き上がろうとした。全身が、痛んでいた。携帯電話ではなかった。ヘルメットの側面に内蔵されたマイクと、平面スピーカーに話しているのだった。
「もう。分かっちゃたんですか?さすがは、天下の宝部伍郎先生ですね」
 声で判断がついた。
「島崎志保君か?悪ふざけは、やめるんだ!」

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 看護婦だった。数年前に、彼が遊んでやった女だった。短期間だが同棲していたこともある。別れたのに、いつまでも付きまとってくる。白い巨乳だけが取り柄の、田舎者の女だった。いつかは、始末するしかないと思っていた。

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「それが、やめられないんですよオ〜」
「なんだと!」
「先生、今、自分がどこにいると、思っているんですかア?執務室の仮眠ベッドじゃないですよオ〜」
 ふざけたしゃべり方だった。

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 ようやく痛む目を開いた。計器盤が点滅していた。体内外科(いつも思うが、妙な言い方だ。内か外かはっきりしてもらいたい。)の手術の時に、医師が着て患者の体内に潜行する、「オペレーション(手術)・スーツ」の内部だった。通常は、略してオペ・スーツと呼ばれている。人間が操縦する小型のロボットのようなものだった。清潔そうな淡いグリーンの色をしている。

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 宝部伍郎は、食道外科の医師である。異物の停滞しやすい、癌の好発部位である、食道の三ヶ所の狭窄部の手術では、超一流と評価されていた。何度も、これを着用して患者の食道の内部に、オペ(手術)のために潜行している。ただし、噴門部を通過して胃の内部に潜行したことは、インターンの時代に、数回あるだけだった。そこから先は、未知の世界だった。

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 しかし、今の彼は、どうやらその神秘な領域の内部にいるのだった。すると、男性のみを縮小する「ホルス薬」を飲まされたことになる。全身の激痛は、看護婦としてはヘマな志保が、正規の手順によらない不備な縮小処理を、彼に施したからだろう。縮小過程は、危険なのだ。専門家以外にホルス薬を投与することは、現代の日本では法律違反である。志保は、犯罪人だった。

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 このタイプのオペ・スーツは、消化器官の手術に用いられる。全長で、三センチメートルほどになる。ずんぐりむっくりとした人間型だった。篠原精密機械工業の「アイザック参號(さんごう)」だった。ずいぶん旧式の機体である。手製の間に合せの修理の跡が、あちこちにあった。訳の分からない「脱出装置」というボタンまであった。こんなものを押すくらいならば、死んだほうがましだった。素人の手になるものだろう。貼り混ぜ細工のようなものだ。危険きわまるシロモノだった。こんなもので、人間の体内という苛酷な環境に潜行するなど、自殺行為以外の何物でもなかった。不測の事故で死亡する場合は、百のケースを越えるだろう。酸素濃度の調節を、ミスッただけで一巻の終わりだった。

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 オペ・スーツの内部の彼は、元のサイズの、せいぜい百分の一の身長というところだった。二十ミリメートルもないだろう。小柄な彼は、十六ミリメートル半というところだったろう。百分の一のサイズにする規則があったから、ホルス薬の一回分の量は、そのように調剤されていた。

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 習慣で、各種の計器の数値を、確認していた。もっとも重要な、酸素の残量計のところに自然に目が行っていた。ショックを受けていた。あと十八時間しかない。通常では、オペの完了時間でも、なお三十六時間分以上の余裕があるのだった。酸素の予備タンクも、辛うじて一本があるだけだった。どんなに緊急事態が発生しても、タンクは一時間分しかない。残りの二本分は、空だった。心細いこと。おびただしい。

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 足の間の、座席の前の簡易トイレの蓋を開けていた。内部に、小便をしていた。緊張のあまりに尿意を覚えた。前の搭乗者の遺物が、乾いてこびり付いていた。いくらか落ち着いてきた。考えなければならなかった。どうやって、ここから脱出するかだった。自力で可能なのか。不可能ならば、志保を説得しなければならない。彼女が、こんなことをした理由は分かっている。菊池怜子の存在のせいだった。仕方がないことだと、いくら説明しても理解してくれなかった。

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 アイザック参號でも、患者の体内での位置を、自動的にナヴィゲーションしてくれるシステムがあった。最新型の3DCGという訳にはいかない。二次元のものだった。クロノメーターを見ると、志保の体内に入ってから、すでに六時間が経過していることが分かった。自動操縦の、中古のオペ・スーツが大過なく、彼をここまで運んで来てくれたことが、奇跡のような幸運だった。相当な整備士がいたのだろうか?何が起こってもおかしくなかった。患者の体内で遭難する医師の人数は、毎年二桁に達している。オペ・スーツに乗って、人間の体内に潜行する。体内外科の仕事は、命懸けの危険な仕事だった。

                 *

 モニター画面には、志保の肉体のニ次元映像が映し出されている。任意の部分が拡大できた。彼のいる位置に光点が点滅していた。胃の幽門部も、通過していた。

                 *

 小腸の先端部だとわかった。胃で消化された食物が、十二指腸で胆嚢からの胆汁を受けて、黄色くなっている。膵臓からの膵液に、腸液も交じっている。粥状になった、黄褐色の液体の内部に、浮かんでいるのだった。消化管の内でも、消化と吸収の実行される主要な場所が小腸である。一般人が、漠然と信じているような胃ではない。その意味でも苛酷な世界だった。膵液や腸液に含まれる消化酵素や、胆汁中の胆汁酸によって消化されていく。水分とともに腸管壁から吸収される。その残滓が大腸に送られて、水分を吸収されて固形の便となって、肛門から排泄されるのだった。

                 *

 島崎志保の小腸の粘膜、筋層、漿膜の三つの層をレーザー・メスで切り裂いて、今すぐにでも、ここから脱出したいという、狂暴な発作に襲われていた。アイザックの右手にも装備されていた。しかし、それに割けるだけのバッテリーの残量は、もうなかった。高電圧を、短時間に消費する。作業を完遂する前に、彼は窒息して死ぬだろう。

                 *

 小腸の粘膜の表面の絨毛(じゅうもう)は、十センチメートルぐらいの長さがあった。無数に蠢いていた。密生していた。輪状の襞を形成している。もちろん。本当は、一個が一ミリメートルぐらいである。宝部のサイズの世界ではそう見えるということだった。その表面積は通常の人間の場合で、四十平方メートルになる。十二坪の面積だった。志保ならば、400000平方メートルになるだろう。絨毛は生きている海藻のようだった。艶かしく動いていた。彼を捕まえて、栄養を吸収しようとしているのだった。杯細胞が、分布していた。
 
                 *

 基底部には、赤く実った果実のようなパネート細胞があった。ここから、腸液を分泌しているのだった。腸腺の開口部の穴が見えた。消化酵素が分泌されていた。リンパの小節もあった。

2・午前4時:あと17時間

 電池は、あと十七時間だった。このスーツを着た宝部の生存を、志保の体内で維持するだけでも、ぎりぎりの残量しかなかった。薬品は、麻酔薬も止血薬も、全く積載していなかった。志保は用意周到だった。彼から爪も牙も奪っていた。

                 *


「あと十七時間したら、潅腸するわ。先生が、あたしの直腸の先端部にまで、辿り着いていてくれたら、あたしの大便と一緒に、排泄される可能性があると思うわ。がんばってね」

                 *

 志保が、彼を下半身の腸の内部に入れたままで、オナニーをしているのだった。全身がリズミカルに振動していた。嵐の海の小舟の気分が、分かった。スーツの姿勢制御機構の限界を越える動きだった。悪酔いしていた。操縦席の内部に吐いていた。彼の胃液のすっぱい臭いが、さらに嘔吐感を増大させていた。

                 *

 宝部の泣き落としを含む、志保へのあらゆる説得工作が功を奏しなかった。
3・午前5時:あと16時間

「うるさい!おだまり!」
 志保に命令されていた。彼女は、オーガズムを感じ初めていたのだった。強烈な腸壁の振動があった。オペ・スーツが悲鳴を上げていた。志保が、自分の腹部を片手で殴ったのだった。彼女としては軽い遊びのような一撃だろう。苦痛を感じるようなものではない。しかし、その衝撃は、洞窟で壁面が崩落したようなものだった。宝部は歯で口の中を噛み切っていた。血の味がした。

                 *

 志保は、膣に指を入れていた。彼のペニスの方が、何倍も素晴らしかった。それを思い出しながら、Gスポットを愛撫していた。ここも、宝部先生の逞しいあれの先端部分が、発見してくれた場所だった。執拗についてくれた。抜きながら。腰を「の」の字に回転させられる瞬間が、志保は好きだった。切なかった声を上げていた。彼のいる運動不足で、たるんだ腹の脂肪を、指先で揉むようにして愛撫していた。陰毛の形が、歪むまでに力を入れていた。

                 *

 宝部は、難破船の船長の気分だった。嵐の海の樽の中に、詰め込まれているようなものだった。小腸内の、筋層の内外両層の間と、粘膜下組織の中の網状の神経組織に何度か、体当たりをかけていた。アウエルバッハ(筋層間)神経叢。後者をマイスネル(粘膜下)神経叢という。せめて、志保に腹痛ぐらいは味合わせてやりたかった。しかし、この小さな機体の質量では、オナニーを満喫した破廉恥な女の安眠を、妨げることもできなかった。神経を刺激していた。便秘のせいで血液がドロドロになって、ニキビの多い志保の、明日の快便を保障してやっているようなものだった。自分の被害の方が大きい。やめていた。

                 *

 電池の消耗を、最小限にするために、スーツ内の電灯も最小限に絞った。暗い中で、アイザック参號は、志保の小腸の蠕動運動に、送られていった。ごぼごぼ。糜粥(びしゅく:粥状に砕かれた物質)の中に、巨大な泡が浮かんでいた。小腸だけで彼には、六、七百メートルの長い長い旅だった。

                 *

 小腸の正常運動は、大別して三つある。蠕動、振り子、分節の運動である。迷走神経によって促進的に、交感神経によって抑制的に支配されている。

                 *

 蠕動は、十二指腸の起点の開始部分から始まっている。肛門側に向かう周期的な環状の収縮波である。宝部のオペ・スーツは、それに、つねにさらされている。腸内容物を輸送してくれる訳である。宝部はそれに乗って、電池の消耗分を、最小限に食い止めるつもりだった。振り子運動は、小腸の前半の空腸に。分節運動は後半の回腸に見られる。ともに腸内容物の撹拌に役立っている。宝部と「アイザック参號」は、これにも玩ばれることだろう。

                 *

 身長百六十八センチメートルの志保は、男性としては百六十五センチメートルと小柄で短足の宝部伍郎よりも、普段から三センチメートルの長身だった。ヒールを履くと十センチメートル以上の差が付いた。小男が大きな女を自由に引き回すことが快感だったのだ。彼は、支配の野望に取り憑かれた男だった。
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 しかし、百分の一にホルス薬によって縮小された彼にとっては、今の志保は身長百六十八メートルの巨大看護婦だった。その怪獣の体内に、幽閉されているのだった。彼は、おそらく60000000キログラムの重量に相当する、女という肉の山の内部にいた。やすやすと脱出できるはずもなかった。

                 *

 手術中は、患者というものは、当然のことだが台の上で安静の状態である。睡眠中の人間もそうである。しかし。起きるとそうではない。宝部伍郎は、迂回する管状のトンネルのような空腸と回腸を通過しながら、暗澹たる気分でいた。肉の迷宮だった。全長は、四百メートルぐらいとなるだろう。今の状態でオペ・スーツの姿勢を制御して、致命的な腸壁への衝突を回避するだけでも、バッテリーの消耗が激しかった。赤い人参のような物体の残骸が、背後からぶつかってきた。そうしてから、すぐそばを通過していった。宝部は、軽い鞭打ち症になっていた。

4・午前7時半:あと13時間30分

 朝が来た。原則として三交替性の志保は、午前九時から午後六時までの勤務だった。午前八時半には、引継ぎのためのスタッフ・ミーティングに出席しなければならなかった。看護婦寮は、病院の敷地内にあるから、通勤時間は徒歩数分で住む。宝部伍郎先生の相手で、2時間弱しか寝ていない。が、若い志保は元気溌剌だった。徹夜も平気な方だった。

                 *

 ベッドから起き上がっていた。オナニーしながら、寝てしまったようだ。パンティも履いていなかった。良くあることだ。気もしなかった。トイレに行った。大量に黄金の小便をした。食事もした。

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 昨夜は、さすがに宝部先生のオペ・スーツを飲んだことで、胸がいっぱいになってしまった。あまり食欲がなかった。レトルトで、クリームシチューを暖めて、よく噛んで食べた。消化・吸収を良くして、宝部先生の志保の体内の旅が、より容易に進行するようにという配慮である。志保は、先生のオデッセイの成功を、心の半分では、辛いことだが望んでいたのだった。

                 *

 朝食は遠慮しなかった。ミルク。オレンジ・ジュース。サラダ。トースト二枚。カリカリに焼いたベーコン二枚と。スクランブルエッグ。志保としてもフルコースの朝食だった。腹が減っていては、看護婦の激務が、こなせないことは、体験から分かっている。

                 *

 白衣に着替えもしていた。先生との連絡はとれない。通信のためのバッテリーの余裕は与えていない。宝部伍郎の、知性と運の強さのみの単独勝負だった。もし自力だけで生きて出てきたら、潔く菊池怜子に渡すつもりでいた。

5・午前9時:あと12時間

 すでに看護師の仕事を開始していた。病院内は、宝部伍郎先生の失踪事件に、騒然としていると思っていた。しかし、巨大な難波大学病院は、一人の医師の蒸発など問題にしないかのように、平然と聳えていた。内部の人間たちも、まるで大学病院という巨大な人間の内部で、働くもの達のように、忙しく動いていた。志保は、拍子抜けしていた。

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 看護婦は、激務である。建物の中心部を横断する、広い廊下を歩いていた。大動脈のようだった。自分が、難波大学病院という巨大な組織の中で、白血球の一粒のように卑小に感じられていた。宝部先生も、このように感じていたのではないだろうか。だから、あんなに出世することに飢えていたのだ。「先生、スーツには「脱出装置」があるのよ。思い出して!」お腹の中の彼に、言葉に出さずに祈っていた。助かって欲しかった。志保の内臓も、仕事に合わせて、激しく動き、激しく捻れていた。

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 精密なナノテクノロジーの産物であるオペ・スーツが、このような動きと振動に、耐えられるようには、作られていないということは、志保も前の彼氏から聞いて知っていた。運が悪ければ、宝部先生の身体は、志保の腸壁と大便の間で押し潰されて、破壊されるだろう。それでも、志保はまったく遠慮しなかった。だからこそ、スリルがあって楽しいのだ。仕事に、手を抜くことはまったくしなかった。いつもと同じように、全力で活動していた。高齢の患者の身体を支え、入院中の子供に優しい顔で、ケアをしていた。でも、その間も、宝部先生のことを忘れる瞬間は、たぶん一度もなかった。
巨大看護婦体内漂流記(前編)・了

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